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■フォーラム「3.11後の環境と経済社会問題を考える」について

『経済社会学会年報』XXXV号、2013年、59-60頁、所収

橋本努(北海道大学)

 


 

 第48回全国大会では「3.11後の環境と経済社会問題を考える」と題して、広く市民の参加に開かれた「一般公開フォーラム」を開催した。三名の登壇者とその報告タイトルは以下のとおりである。

高木晴光(NPO法人ねおす理事長)「三陸ひとつなぎ自然学校―被災地に生まれたコミュニティビジネスへの試み」、本田宏(北海学園大学法学部教授)「原子力問題と労働組合―ドイツの事例から」、吉田文和(北海道大学大学院経済学研究科教授)「原発ゼロへのシナリオを」。

 本フォーラムを受けて、本年報では、高木晴光氏と吉田文和氏の論稿を、それぞれ掲載することになる。お二人の報告内容については、当該論稿をご高覧いただきたい。これに対して本田宏氏は、ご報告の内容が他の学会誌に掲載予定の論稿と重なるため、本年報へのご報告の掲載を辞退された。そこで以下では主として、本田氏のご報告について紹介し、その意義について簡潔に述べたい。

 本田氏は、御高著『脱原子力の運動と政治』北海道大学出版会(2005年)において、戦後日本における原子力エネルギーの導入をめぐる政治過程を緻密に分析し、諸々の政党や団体が果たした役割を解明することによって、「政治過程」論に大きな貢献をなしている。3.11後の日本社会において、本書の分析は、原発問題を考えるための、ひとつの橋頭堡を与えているだろう。

今回のフォーラムにおけるご報告では、本田氏には、1950年代以降のドイツにおける原子力政策について、周到かつ明快に整理された分析をご提示いただいた。例えば、ドイツの労働組合は、原子力政策に対して、いかなる対応を示してきたのか。転機となったのは、1968年以降の学生運動にあったことが、報告の前半で明らかにされた。

それ以前の1950年代後半においては、ドイツ労働総同盟(DGB)は、保守政権の下で原子力委員会に参加し、社会民主党とともに、原子力の「民生利用」を肯定していた。ところが1970年代前半になると、原発予定地の住民(主として農民)が主体となって、原発の建設に反対する運動を繰り広げ、それを新左翼の学生たちが支援するというかたちで、原子力政策批判運動が展開された。これをうけてドイツ労働総同盟は、一方では建設中の原発の工事を肯定するものの、他方では、核廃棄物処理施設の問題が解決されるまで、完成した原発の稼動を認めないという態度をとることになった。

ドイツの社会民主党は当時、原子力政策に対して玉虫色の態度を示していた。原子力政策に対抗する勢力が生まれたのは、労働組合の中の一部に、「個人としての活動ネットワーク」として、1978年に「原子力に抗する労組員――生活行動部会」が結成されたときであった。労働組合が提起したのは、原子力政策そのものの破棄ではなく、再処理工場の労働条件の問題や、原子力施設における監視体制の強化の問題、あるいは正社員の被ばく線量を抑えるために「外部人員­」(派遣労働者)を大量に必要とするという問題であった。

 ところが19804月になると、ドイツ政府は、石炭電力への補助金を交付すると同時に、原子力を推進する政策に出る。原発建設の許認可手続きも簡略化され、一気に原発推進ムードへと転換した。転機が訪れるのは、1986年のチェルノブイリ原発事故によってであった。ドイツ労働総同盟は、「できるだけ早期の」脱原発を求める決議を採択し、社会民主党も「原子力なきエネルギーの安定供給」を検討する委員会を立ち上げ、その報告書の中で、「10年以内の脱原子力」を要求した。1990年代に入ると、多くの州で赤緑政権が発足し、脱原子力志向の法執行を行うことになった。1998年から2005年までつづいた赤緑連立政権は、脱原子力政策を推進し、再生可能エネルギー固定価格買取制度を大幅に改善していった。福島原発事故後は、ドイツ各地で大規模な反原発デモが生じ、ドイツ労働総同盟も参加している。

 以上がドイツにおける原発政策をめぐる労働組合の対応の概略であるが、本田氏の報告ではこうした歴史的経緯をめぐって、以下の五つの観点から分析が示された。すなわち、(1)各労組の性格の分析、(2)社会民主党の意思決定と労働組合の対応の連関、(3)原子力施設で働く労働者の労働条件の問題、(4)原子力政策をめぐる政治過程において、労組の影響は小さいものにとどまる一方、合意促進型の政治過程を積極的に打ち出していた点、および、(5)日本との比較、である。

日本との比較については、さらに五つの興味深い分析が加えられた。例えば、日本では、産業別の労働組合の編成によって労働界が分断され、結果として反核・反原発運動もまた分断されてしまった点が指摘された。また、1980年代の日本においては、原子力推進派の大企業労組が主体となって労働界を再編した結果として、反原発を支援した官公労は、守勢に回らざるを得なかったことなどが指摘された。

 報告の概要は以上である。その内容から私たちは、とりわけチェルノブイリ原発事故後のドイツの対応に、学ぶべき点が多々あるだろう。ドイツでは、1990年代なってから、いくつかの州が連合して、電力会社の政策に政治的な影響を与えている点も興味深い。はたして日本で道州制を導入した場合に、類似の政治過程が生じるかどうかは不確実であるが、いずれにせよドイツでは、労働組合を含めた下からの民主的な政治過程を通じて、脱原発の政策がしだいに実現していったことが、ご報告において明快に示されたように思う。

 この他、NPO法人ねおすの理事長として、震災直後から実際に被災地を支援し続けている高木晴光氏は、これまでの活動の内容についてご報告された。震災の翌日にフェリーに乗って、北海道から青森に到着した高木氏は、現在もなお釜石市の北部を拠点に、ボランティアの活動を続けている。高木氏の諸々の活動に対して、心から敬意を表したい。ご報告の中で、私にとって最も印象に残ったエピソードは、震災直後の被災地と内陸部における、情報の落差であった。例えば被災地の避難所では、当初、下着類が大幅に不足した。ところが被災地からそれほど遠くない内陸部の遠野では、衣料品店に大量の下着が売られていた。高木氏はそれらを買い込んで被災地まで送り届けたというが、必要な情報が近くの街まで伝わっていなかったのである。

 最後に、吉田文和氏の報告は、主として、北海道電力の泊原発を再稼動させるべきかどうかをめぐる議論であり、「脱原発」の立場からの分析が示された。北海道における電力需要の最大の問題は、冬場の暖房であり、夏よりも冬に、電力のピークが訪れる。そのピーク時の電力を減らすことは、比較的容易であり、電気ではなくガスや灯油などの代替エネルギーによって暖房すればよいと主張された。この他、原発をゼロにするためのシナリオが多角的な観点から総合的に提示され、説得力を持って語られた。